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設計者の想いの日々(ブログ)すべて延年楼~水戸市自由が丘「延年楼」は1835年に建築された水戸で現存する最古の茶室である。 「水戸石州流」を学んだ豪商・大高家6代織右衛門守善が、水戸城下・馬口労町(現在の末広町)に建築し、戦時中の空襲の難を逃れ、現在は自由が丘の和田祐之介邸の敷地内に移築されている。 床の間の床板の裏に天保6年(1835年)と記されていたことから、建築年代が明らかになった。 「延年」は菊の異名であり、大高家3代織右衛門明郷が菊の栽培に熱心だったことから、「延年楼」と名付けられた。襖にも菊の模様が多用されています。 水戸藩の茶道は「水戸石州流」が主流で、藩主の6代治保、8代斉脩、9代斉昭が茶人として有名である。 石州流は水戸以外にも高知・彦根・秋田・仙台など各地に伝えられてきたが、裏千家・表千家などのように家元制度でなかったため、同じ石州流でも地方によってお点前が違うのが特徴である。つまり「水戸石州流」は水戸独自のお点前である。 明治に入り、「石州流水戸何陋(かろう)会」が結成され、その後紆余曲折を経ながらも、昭和54年「延年楼」を拠点に水戸の若手経営者が集まり、水戸石州流のお茶を学ぶため「延年会」が発足した。 ちなみに「水戸何陋(かろう)会」の名前の由来は、論語から徳川斉昭が命名した「何陋」が由来である。 「室は陋しく粗末だが、自分のような君子がいるなら、何で陋しかろうか?」という意味がある。 「水戸何陋会」の現在の会員数は約200名であるが、世間の例外に漏れず、会員の高齢化は進んでいます。 ちなみに私もその会員の一人です。茶道歴は6年半になります。 このように「延年楼」は水戸の「茶道文化」と密接な関係にあり、 水戸の歴史にも深いかかわりある文化的価値の高い茶室ということができるので、益々活用されるべき歴史的建造物であると私は考える次第です。
土蔵改修工事~土壁・横縄入れ
ここ一週間、はっきりしない天気が続き、どこの現場も外部工事がさっぱり進みませんが、土蔵の改修は別です。素屋根(仮設の屋根)がついていますので、今日くらいの雨では何の影響もありません。
土壁工事「荒打ち」「縦縄入れ」に続き、今日から「横縄入れ」です。 土を塗って、藁縄を6cmピッチに入れていきます。 冬場は凍結の恐れがあるため、土壁の工事は出来ませんので、完成まであと1年以上かかる見込みです。
へたっぴ絵画~水彩画その1
弘道館と西ノ内和紙
震災の災害復旧による昨年の弘道館の改修で、壁に茨城県産の「西ノ内和紙」が使用されているというガセネタが広く流布していますが、常陸大宮市・旧山方町の「西ノ内和紙」の生産元に念のため確認したところ、今回の改修では一枚たりとも弘道館側に卸していないとのことです。
但し、西ノ内和紙の生産元としては、震災復興のため弘道館側に「西ノ内和紙」の寄贈を打診しましたが、弘道館側に拒否された経緯はあります。 現在、弘道館の壁紙は全国的に普及する機械漉きの鳥の子和紙が貼られていますが、江戸末期の創建当時は水戸藩の専売品である西ノ内和紙が貼られていたはずです。 西ノ内和紙は、茨城県北地域の特産品である那須楮の樹皮繊維を原料とした手漉きの楮紙で、350年の歴史を持つ、伝統的な和紙です。 江戸時代には水戸藩の専売品として、広く愛好され、徳川光圀が編纂した『大日本史』も、この西ノ内和紙が使われてきた歴史があり、茨城県と国の無形文化財、また県の郷土工芸品に指定されています。 弘道館の昭和の大修理(昭和34年~38年)の際は、まだ弘道館は文化財に指定されていなかったので、大量生産品である鳥の子和紙に貼り替えられてもやむをえないことだと思います。 しかし、既に国の重要文化財に指定されている今回の平成の修理で、昭和の大修理を踏襲し、西ノ内和紙の生産元側の寄贈の申し出を拒否し、全国的に普及する和紙を使用したことは、致命的に、歴史的考証が足らなかった証左と言えるでしょう。 今回のケースは工事是正レベルであると私自身考える次第です。
川越の町並み・重要伝統的建造物群保存地区その3
その2に続きます。引き続き、早朝の撮影です。
川越元町郵便局 蔵を改造したもので、手前に見える黒いものはポストです。赤は景観を壊すということで、ポストまで黒くなっています。 画像奥:旧八十五銀行本店本館 1918年建築。鉄骨鉄筋コンクリート造三階建(搭屋・金庫室付き)で、ネオ・ルネッサンス風の建築物は保岡勝也の設計によるもの。現在は埼玉りそな銀行川越支店として利用、埼玉県内で国の登録有形文化財・第一号である。 画像中央:小林家住宅(くらづくり本舗) 見世蔵は1893年大火直後に建てられ、屋根には、まつ毛のような個性ある飾りがついています。敷地奥には、1883年建築で大火に焼け残った「文庫蔵」が残る。川越市指定文化財。 日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂 煉瓦造りの礼拝堂は1921年建築。設計は立教大学新築のため来日したウイリアム・ウイルソン氏である。国の登録有形文化財であり、川越市の「都市景観重要建築物」の指定を受けている。 旧武州銀行川越支店(川越商工会議所) 1928年建築。外観はドーリス式の列柱を配した重厚な構えになるが、全体の意匠はルネッサンス・リバイバル様式とする。交差点側にバロック風の装飾を付けた特徴的な出入口を設けるなど、時代の特徴を伝える銀行建築の一つである。国の登録有形文化財。 旧湯宮釣具店(手打ちそば百丈) 昭和初期に流行した看板建築である。木造3階建・店舗併用住宅で壁は銅板葺きである。石岡市にも多く現存する「看板建築」とは、関東大震災後、東京下町を中心に建てられた、ファッサード(正面)を重視した、商人の粋と見栄の商店建築のことです。1999年に国登録文化財となる。 その他、多くの目を惹く歴史的建造物、街の風景があります。
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