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設計者の想いの日々(ブログ)茨城県北の町並み・建築・施設探訪・自然・文化久慈川~常陸大宮市(旧山方町)より
久慈川は鮎が生息し鮭が遡上する清流として知られています。
日立と産業革命
苦心惨憺虚(くしんさんさんく)・・・。
日立鉱山の創業者である久原房之助が創業当時を回顧して語った言葉が現在の日鉱資料館、旧久原本部の石碑に残されている。 常陸の豪族だった佐竹氏が鉱床を発見してから三百余年、徳川家・水戸藩ですら、どうすることも出来なかった鉱山を久原房之助が買収したのは1905年(明治38年)のことであった。資金難、地域住民や従業員との軋轢、公害等に苦しめられながらも、長州閥の大物である井上馨の援助を受け、機械化を推進、新技術を積極的に導入し、安定的な電力供給のため、現在の日立市の中里、常陸太田の町屋(下の写真の左側)、北茨城市の石岡に発電所(下の写真の右側)を矢継ぎ早に建設した。 また亜硫酸ガスの対策として、当時世界一の高さを誇った155.7mの大煙突(現在はその1/3が残る)を建設し、1915年にその使用を開始してからは煙害が激減していった。 このような大胆な施策と時代の好景気の波に乗って、日立鉱山は日本の四大銅山(足尾、 別子、 小坂、 日立)の一角を占めるにまで急成長していった。1905年から1981年の閉山までの76年間に、約3000万トンの粗鉱、約44万トンの銅を算出し、日立鉱山を母体として久原財閥が生まれ、現在のJXホールディングスや日産グループへとつながり、日立鉱山の機械の修理部門から日立製作所が独立して1910年には国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させており、日立鉱山を源始とする近代産業は日本の産業革命の一つとして大きな足跡を残している。
小野家住宅・暇修館~日立市
小野家住宅
日立市に残る貴重な茅葺きの民家です。母屋と厩(馬屋)がL字形に一体化していることから「曲り屋」と呼ばれます。この形式の建物は全国各地に分布しますが、茨城県では北部一帯から太平洋沿岸にかけての地域に多く存在しました。小野家はかつて水戸藩の村役人・横目庄屋を代々担ってきました。建築年月は18世紀前期と推定されます。茨城県指定文化財。 暇修館 水戸藩に設立された十五の藩校のうち五番目に古い「暇修館」は1839年、徳川斉昭によって、元の大窪城郭の一部に設立されました。ちなみに同じく水戸藩校だった弘道館は1842年の設立です。その後も学校として利用されてきましたが、老朽化のため惜しくも昭和39年に解体されました。昭和48年、設立当初の間取り図を元に忠実に復元され、現在、生涯学習の場として活用されています。
日立市武道館(旧共楽館)1917年(大正6年)、日立鉱山が従業員及び地域住民のために建てた福利厚生施設である「共楽館」は現在の日立中央インターから数分のところに位置する貴重な産業遺産である。 歌舞伎を上演することを想定して設計され、外観も当時の歌舞伎座を模して造られ、設計者は建築家ではなく、日立鉱山の技師によるものである。 歌舞伎だけでなく、芝居、講演会、相撲巡業、映画会、音楽会、学芸会などの用途に利用された。 昭和20年の空襲を免れ、その後、日立鉱山から日立市に寄贈され、1968年日立市武道館としてリニューアルされる。 1993年に「共楽館」の復元・活用をめざす「共楽館を考える集い」が結成され、復元・活用への運動が始まり、1999年に国の登録文化財、2009年に日立市指定文化財となり、その後、数億円かけて改修工事が行われ、現在に至る。
北茨城市復興支援施設・観光案内所 「びすとれ」~常磐線大津港駅前常磐線大津港駅前にある、40年以上使用されていなかった、大正初期建築の海産物保管庫のレンガ蔵の一部が2012年、北茨城市復興支援施設・観光案内所 「びすとれ」にリニューアルされました。 その昔は「日通」の建物だったようです。震災では無事、軽微な損傷で済みました。 海から程近いこのレンガ蔵は100年という年月の経過により、海に面する側の内壁にまで、塩が噴き出しています(下の画像の左側の内壁部分) ちなみに「びすとれ」はフランス語で「賑わい」を意味します。
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