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設計者の想いの日々(ブログ)すべて花見小路通り・先斗町・白川
花見小路(はなみこうじ)通りは、北は三条通から南は安井北門通までの約1㎞の通りで、京都を代表する通りの一つで、茶屋や料理屋などが立ち並び、2001年に電線類地中化・石畳の整備が完成し、情緒ある祇園の風情を楽しむことが出来ます。
夜の花見小路通り *夜景壁紙サイトからダウンロードしました。 こちらは先斗町(ぽんとちょう)。鴨川と木屋町通りの間にあります。 Wikipediaより拝借した先斗町。カメラマンの腕が違うようです。 三条通りより白川を眺む
大徳寺高桐院
高桐院は、戦国時代に智将として、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が父のために1602年に建立した寺で、大徳寺塔頭の一つです。高桐院の表門を潜ると、これまでの境内の風景が一変、楓と竹林の青葉の美しさと緑の濃さに圧倒されます。
玄関への長い石畳の参道 本堂前庭 松向軒(しょうこうけん) 利休の茶を忠実に継承したといわれる三斎好みの茶室。
大徳寺芳春院
茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である、京都市北区の大徳寺の境内は、20を超える塔頭(山内寺院)が立ち並んでいますが、今回は原則非公開である「芳春院」をご紹介致します。
1608年、加賀百万石の祖・前田利家の夫人・松子(まつ、芳春院)が建立し、法号をとって芳春院と名付け、前田家の菩提寺となっています。 長い石畳の参道、秋は紅葉が綺麗です。 金閣、銀閣、飛雲閣と並ぶ京都四閣の一つの「呑湖閣(どんこかく)」、小堀遠州作。 楼閣前には、飽雲池(ほううんち)を中心とした楼閣山水庭園が広がる。客殿から呑湖閣を結ぶ打月橋(たげつきょう)が架かる。 茶席・如是庵のほかに3つの茶席がある。 本堂前の枯山水庭園
神栖市小学校耐震診断業務偽装事件を考える
神栖市の小学校の耐震診断で、委託された水戸の設計事務所が構造計算・診断業務を全く行っていないにもかかわらず、書類を偽造して市に提出していた事件が先月、発覚しました。
渦中の事務所は、天(あま)建築設計事務所で、管理建築士である天茂彦氏は、私の高校の先輩に当たります。優しく、神経の細やかな紳士という印象でした。 天茂彦氏は次のように述べています。 「担当所員が構造計算のできる1級建築士を探したが期限までに見つからず、(偽造を)やってしまった。担当所員は解雇した。所員の不正に気付けず、申し訳ない」 ただ一言…唖然です。 経営者として、管理建築士として、全く同情の余地がないコメントです。残酷な言い方で申し訳ありませんが、天茂彦氏は、担当所員が不正を行っているのを知っていながら見過ごしていたのではないかとしか、私には思えないのです。百歩譲って、天茂彦氏が本当に全く知らなかったとしたら、経営者として、管理建築士として、責任を放棄していたということになります。例えが良くないかもしれませんが、幼い子の母親が育児放棄をして不倫を繰り返すことと同罪です。 当然のことですが、刑事上の責任はその担当所員よりも管理建築士である天茂彦氏のほうが重くなります。 鉄骨造や鉄筋コンクリ-ト造などの構造計算の出来る構造設計事務所は、現在、非常に数が少なく、今後もさらに減少するだろうと言われています。そのような状況の中で、構造事務所の手配もつけずに、耐震診断業務を引き受けてしまったことは、重大な経営判断の誤りです。 百歩譲って、担当所員に構造事務所を探させるつもりだったのはいいとしても、なぜ、構造事務所への発注金額すら確認出来なかったのか、また業務が終わったなら、構造事務所への支払もあるはずであるし、市に診断結果を提出する前に、その内容を審査する第三者機関「茨城県建築センター」への審査費用の支払も少なくない金額です。このような金の流れも把握できずに、事務所の経営が本当に出来たというのでしょうか? いずれにしても、今回の事件により、またもや、建築士としての信用は失墜したのは事実です。時計の針を逆戻しにすることも出来ません。いずれ天茂彦氏は建築士の免許は剥奪され、刑に裁かれることになるでしょう。一歩油断すれば自身も、天茂彦氏の二の舞になりかねないことを教訓とし、建築士の社会的信用を取り戻すべく、日々の業務に勤しんでいきたいと考えています。
水戸スタミナラーメン
設計者たるもの、「食」にこだわりが無ければ、こだわりを持った仕事をすることが出来ないという信念のもと、今回は趣向を変えて、現在では、水戸のご当地ラーメンとも呼ばれるようになった「スタミナラーメン」の歴史を説明しながら、私自身の「スタミナラーメン」の想いを語りたいと思います。
松五郎(水戸市上水戸) 「スタミナラーメン」との出会いは、約30年前、私が15歳だった頃に遡ります。 当時は、勝田駅前にあった「寅さん」、「大進」というお店で「スタミナラーメン」を食べることが出来ました。「寅さん」の店主である長井氏が「スタミナラーメン」の考案者とされます。 私は専ら、「寅さん」に通っておりました。高校は水戸ですが、勝田出身の友人の定期券を借りたりしては、足繁く勝田まで足を運んでおりました。 キャベツ・人参・かぼちゃ・レバーの具によって構成された、中毒性のある甘辛い餡を、冷水で締めた麺に直接かけるメニューを「冷やし」、醤油ラーメンに餡をかけるメニューを「ホット」と30年前から店内で呼ばれていました。 麺の量も、普通、大盛、ダブル、2.5、3、3.5…と自由に選ぶことが出来たのも学生に支持されてきた一因と言えるでしょう。 また、当時、店先には、店主の長井氏のハーレーが目印のように置かれていて、店主の奔放さを如実に現していて、魅力の一つになっていたと思います。 私は30年前から現在まで、一貫して「冷やし」派であり、「ホット」はせっかくの餡が醤油で薄まってしまうのが好みではありませんでした。 その後、長井氏の「寅さん」は、「松五郎」と名前を変え、水戸市見和、そして、現在の上水戸の店に移転し、一番弟子である池田氏に権利を譲り、スタミナラーメンの創始者は、一旦、一線を退きました。 その後、しばらくして長井氏は水戸市堀町に「ホルモンラーメン玄海」を開店、「スタミナラーメン」のレバーをホルモンに変えて、現在も営業を続けていますが、最近は、長井氏の姿を見かけることも少なくなり非常に残念です。確かに、当時の「寅さん」の味を彷彿させるのですが、弟子にあまりやる気が感じられず、同系店と比較して、総合的には一歩劣っている感は否めません。 ホルモンラーメン玄海(水戸市堀町) 「スタミナラーメン」の本家と言えば、長井氏から権利を譲られた池田氏の「松五郎」ですが、ただ30年前の「寅さん」の味を昨日の様に覚えている身からすれば、少々物足りないのが本音です。当時の「寅さん」のスタミナは辛さがあって、もっとパンチがあり刺激的でした。現在の「松五郎」は、万人受けする、より無難な味に変わったように感じます。それでも美味しいのは確かですが…。 さらに本家の「松五郎」から独立した「がむしゃ」という店がつくば市にあります。こちらも確かに美味しいのですが、本家以上に薄味で、これまた、さらに刺激に欠けます。それでも美味しいのは確かですが…。 で、また、さらに「がむしゃ」から独立した店が最近つくば市内に出来たようです。こちらはまだ味見していません。 がむしゃ(つくば市) 本家系列で修行したわけではありませんが、やはり私と同様に学生時代、「寅さん」に魅了され、当時のスタミナラーメンを再現しようと頑張っている店が、「我流食堂」です。県庁近くとひたちなかに店を構えています。味は濃いのですが、ただ少々辛さが足らないのが気になりますが、十分に合格点です。 我流食堂(水戸市笠原町) いわゆる水戸「スタミナラーメン」はとても衝撃的出会いでしたが、高校卒業後、上京してからは、博多とんこつの「長浜ラーメン」にも衝撃を受けることになります。これについては、また機会があったら書き記したいと思います。 (注釈) かつて、勝田駅前にあった「寅さん」は、約25年前、水戸に移転し「松五郎」になりましたが、現在、ひたちなか市内の国道6号沿いの田彦に、スタミナラーメンを出す「寅さん」という店があります。現在の「寅さん」と「松五郎」は運営は別のようです。
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