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設計者の想いの日々(ブログ)すべて袋田の滝~2013年12月
袋田の滝は、茨城県久慈郡大子町に位置し、華厳の滝、那智の滝とともに日本三名瀑のひとつに呼称される場合もあり、日本の滝百選にも選定されている。1990年に行われた日本の滝百選の人気投票では1位を獲得している。
高さ120メートル、幅73メートルの大きさを誇り、滝の流れが大岩壁を四段に落下することから、別名「四度(よど)の滝」とも呼ばれます。 また一説には、その昔、西行法師が袋田の滝を訪ねた際、「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と絶賛したことからとも伝えられています。 木々の新芽が吹く春、涼を取る夏、紅葉の秋、冬の氷瀑の姿と、四季折々、その趣を変えます。 ここ最近は11月から2月にかけてライトアップも始まり、浸食に耐え残った約1500万年前の火山噴出物が作る「崖」である「袋田の滝」は、茨城の名所であり、茨城県外の方々にも是非訪れて欲しいスポットです。 (今年度のライトアップは2月11日まで、金・土・日・祝日・年末年始のみ行われます) 「花もみち 経緯にして山姫の 錦織出す 袋田の瀧」 西行法師 「いつの世につゝみこめけん袋田の布引き出すしら糸の瀧」 徳川光圀 「紅葉は風にまかせて山姫のしミすをくゝる袋田の瀧」 徳川斉昭
大内宿の町並み・重要伝統的建造物群保存地区
「大内宿」は、福島県南会津郡下郷町にあり、江戸時代は「半農半宿」の宿場で、約450mの通り沿いに茅葺き屋根の民家が整然と建ち並んでいます。
旧宿場の町並みが再評価され、貴重な文化遺産であることから、1981年、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されてからは、次第に観光地化が進み、年間100万人を超える観光客が訪れるまでになっています。その結果、土産店や蕎麦屋が軒を連ね、テーマパークのような作り物になった感は否めません。 建物の内部が見学できるのは2軒のみです。 旧本陣を復元した建物である「大内宿街並み展示館」 「大内宿」の町並みが現在まで残されきたのは、近代化から取り残された結果、住民の生活習慣や、住民の互助組織である「結」が昔のまま維持されてきたからと言われています。 「結」とは、農の営みや茅葺きの葺き替えなどの作業を住民が協働して行う相互扶助組織で、茅葺きであれば、住民が手分けして、茅を集め、運び、選別し、茅を葺くときは住民100人以上が屋根に上って数日間で仕上げていたようです。「結」という組織があったからこそ、膨大な手間がかかる、「徒然草」に記されている「夏を旨にした」茅葺きの家に誰でも住むことが出来たわけです。 現在は「結」という組織は崩壊し、茅葺きの屋根を葺くとすれば、茅を集めることから何から、全て茅葺き職人にお任せですから、瓦を葺く10倍以上の工事費がかかってしまうことになります。 しかも、現在は、茅葺き屋根の下地に使う茅は簡単に集まりますが、最後の仕上げに使用するための「長くて丈夫な茅」が集まりにくいという状況にあります。 ちなみに「茅葺き屋根」は日本だけでなく、世界各地に見られるようです。 茅葺き屋根の論考については、また別の機会に書き記したいと思います。
建築士会活動報告~中城通りポケットパーク案
建築士会土浦支部では、土浦市市街地の景観整備、そして、まちづくり活動の一環として、
中城通り(旧水戸街道)にて、「ポケットパーク案」を土浦市商工観光課・都市計画課に提案し、その実現に向けて協議を本格化しつつあるところです。 中城通りには江戸時代から明治にかけて建築された歴史的建造物が立ち並び、土浦市から「景観整備地区」に指定されている地域です。 その内容としましては、 まちかど蔵「野村」の駐車場の道沿いのスティールフェンス(現況写真参照)を撤去し、一部駐車場スペースを杉の板塀で囲って、ベンチを設置し、中城通りの景観を整備するとともに、市民及び観光に訪れる方々のための憩いの場として活用して頂くことを目的とした計画です。(基本計画案参照) 茨城県建築士会は、2005年、茨城県より「景観整備機構」の指定を受け、良好な景観の形成を促進するための業務を行う団体となりました。 しかしながら、まだ景観整備における実績は一部の支部を除き、乏しいのが現状です。 行政及び地域団体に積極的な提言を行い、「景観整備」、広い視野での「まちづくり」に取り組むことは、現在の建築士会にとって急務であり、土浦支部といたしましても、単なる提言にとどまることなく、より具体的な活動を行っていく所存ですので、会員の皆様からのご意見とご助力だけでなく、土浦市民を中心に幅広い方々のご意見を賜りたく考えている次第です。 現況写真 「中城通りポケットパーク」基本計画案
親戚の工事業者に家を頼んだら、変な家が出来てしまった…etc
家造りの失敗例のパターンの数々を今回は取り上げてみようと思います。
1.親戚の工事業者に家を頼んだら、変な家が出来てしまった… お互いに緊張感や計画性がなく、「ナァナァ」で物事を済ませば、失敗するのもやむをえないでしょう。親戚の工事業者を信用し過ぎた結果、言いたいことも特に言わず、家が完成して、その出来上がりがイメージと大きく違っても、親戚関係がこじれるのも困るので、鳴き寝入りするケースは枚挙に暇がありません。 「親戚」を「友達」に置き換えたケースでも、同様のことが起こりやすいと言えるでしょう。 2.ハウスメーカーやビルダーに展示場のように格好良く建ててくれと頼んだら、似ても似つかないダサい家が出来てしまった… 展示場の設計者は、大手なら本社の商品開発部の精鋭の建築士であり、地元のビルダーなら、設計事務所に外注するケースが非常に多いです。 しかしながら、一般の顧客の設計は無資格の営業社員が行っている現状がほとんどであり、また、展示場の仕様と一般顧客向けの仕様は違います。 従って、メーカーやビルダーが、ちょっと流行を取り入れただけのすぐ飽きがくるようなダサい家を量産するのは、必然的であると思ったほうがいいでしょう。また営業経費をかけ過ぎているがゆえに、例外なくコストパフォーマンスが非常に悪いのも共通するところです。某大手ハウスメーカーの4000万以上の住宅は、金額だけは「高級住宅」ですが、高級住宅でもなんでもない陳腐な代物です。 3.地元の大工・工務店に頼んだら、古臭いセンスゼロの家が出来てしまった… そもそも、センスが良い大工や工務店は少数です。また施主の意向を無視して、大工・工務店が施工のしやすいように施主を丸め込むケースが多いのも彼らの特徴です。これからの大工・工務店のあり方は、自らの技術を奮うことに専念して、設計などのソフトの部分は、工事会社ひも付きでない、独立系の経験豊富な設計事務所に任せることです。 4.建築家に頼んだら、カッコだけで、使い勝手の悪い、生活感覚の乏しい家が出来てしまった… 施主の意向を無視し、建築家のエゴによる作品化を推し進めて、その出来上がりに施主が愕然とするケースも決して少なくありません。自分の意見を滔々と語るだけの建築家は絶対に避けるべきです。 5.消費税が上がる前に、駆け込みで、さっさと家を建ててしまおう… 注文住宅なら、失敗する可能性が非常に高いです。それはしばらく経ってから気づきます。 云千万とする建築物を建てるために、考えるべきことは無限とあります。施主のためのより良い家造りを考えていくよりも、目先のお金を追う工事業者のほうがはるかに多いです。 以上、家造りの失敗例のパターンのいくつかを書き連ねてみましたが、失敗しないための方策については、私が今まで書き記してきたブログを読んで頂ければ、自ずとその方向性がわかるようにしておりますので、是非、お時間がございましたら、当設計事務所のブログに目を通されてみてください。
銀座の街並みPARTⅢ~銀座の街並みの形成
銀座の地名は、1612年に貨幣の鋳造を担った「銀座役所」が、現在の銀座の地に設置されたのが由来で、江戸幕府により、町人地として都市基盤が整備されました。ただ江戸時代当時は、銀細工職人などの「職人の町」としての要素が強かったようです。
明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火により、大規模な区画整理とジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われ、銀座を不燃都市化し、文明開化の象徴的な街にするための政策が行われました。 1923年の関東大震災後、後藤新平による大規模な復興計画を実施し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われましたが、1872年の区画整理時の街並みは残されたままでした。 江戸時代からの長い歴史を引き継ぐ銀座は、戦前からの建物も残され、その代表格として、1932年渡辺仁が設計した、時計台が特徴的である百貨店の「和光本館」が挙げられます。建築された当時は、服部時計店(現在のSEIKO)の社屋であり、時計台四面に時計が取り付けられ、4つの時計はそれぞれ、正確に東西南北の方角に向いています。 外壁は2階までが岡山県産の万成石(桜御影石とも呼ばれます)で、3階以上も御影石(産地不詳)です。 私は個人的に、この「和光本館」が非常に好きで、この建物を見ると銀座に来たと思うと同時に、安堵感を覚えます。 最近の斬新な建物に囲まれながらも、古き良き「和光本館」は、今後も末永く銀座の象徴的な建物として、不思議な存在感を誇示していって欲しいと思います。 和光本館(旧・服部時計店社屋) 路地裏にも、時代を感じさせる個性的な建物が建っています。
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