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設計者の想いの日々(ブログ)茨城県央の町並み・建築・施設探訪・自然・文化那珂湊反射炉跡徳川斉昭が水戸藩内の海岸の防備・異国船打ち払いのため、大砲に要する鉄を熔解するための「反射炉」はオランダの技術などを導入して1850年代に造られた。 斉昭亡き後の1864年、水戸藩内の抗争・元治甲子の乱により焼失したが、昭和12年に復元された。 幕末当時の「反射炉」は耐火煉瓦で造られ、その原料となる粘土を得るため、現在の栃木県馬頭町の土を使用し、これに磐城産の燧石の粉末を一定の割合で混ぜ合わせることで烈火に耐える煉瓦の焼成に成功した。 耐火煉瓦を造るための登り窯も復元されています。
那珂川~那珂湊より眺む
那珂川~那珂湊より眺む
赤い鉄橋は、大洗と那珂湊を結ぶ海門橋。 現在では全く名残がないが、海門橋付近の大洗では遊郭街であった。
延年楼~水戸市自由が丘「延年楼」は1835年に建築された水戸で現存する最古の茶室である。 「水戸石州流」を学んだ豪商・大高家6代織右衛門守善が、水戸城下・馬口労町(現在の末広町)に建築し、戦時中の空襲の難を逃れ、現在は自由が丘の和田祐之介邸の敷地内に移築されている。 床の間の床板の裏に天保6年(1835年)と記されていたことから、建築年代が明らかになった。 「延年」は菊の異名であり、大高家3代織右衛門明郷が菊の栽培に熱心だったことから、「延年楼」と名付けられた。襖にも菊の模様が多用されています。 水戸藩の茶道は「水戸石州流」が主流で、藩主の6代治保、8代斉脩、9代斉昭が茶人として有名である。 石州流は水戸以外にも高知・彦根・秋田・仙台など各地に伝えられてきたが、裏千家・表千家などのように家元制度でなかったため、同じ石州流でも地方によってお点前が違うのが特徴である。つまり「水戸石州流」は水戸独自のお点前である。 明治に入り、「石州流水戸何陋(かろう)会」が結成され、その後紆余曲折を経ながらも、昭和54年「延年楼」を拠点に水戸の若手経営者が集まり、水戸石州流のお茶を学ぶため「延年会」が発足した。 ちなみに「水戸何陋(かろう)会」の名前の由来は、論語から徳川斉昭が命名した「何陋」が由来である。 「室は陋しく粗末だが、自分のような君子がいるなら、何で陋しかろうか?」という意味がある。 「水戸何陋会」の現在の会員数は約200名であるが、世間の例外に漏れず、会員の高齢化は進んでいます。 ちなみに私もその会員の一人です。茶道歴は6年半になります。 このように「延年楼」は水戸の「茶道文化」と密接な関係にあり、 水戸の歴史にも深いかかわりある文化的価値の高い茶室ということができるので、益々活用されるべき歴史的建造物であると私は考える次第です。
旧宍戸城表門~笠間市土師(はじ)旧宍戸城表門は、水戸藩の支藩である宍戸藩の陣屋表門であり、1858年に現在の旧友部町に建立され、明治時代初期に旧岩間町の現在地に移築されたものである。門の左手が居室、右手に物置をとる長屋門形式である。正面の冠木には、宍戸松平家の家紋が3個(桜材・黒漆塗・金箔押し)飾られる。茨城県指定文化財。 この門は、岩間街道沿いに位置し、江戸時代は、群馬県瀬戸井から古河・下妻・筑波・旧八郷町・旧岩間町・旧友部町を経由して水戸城下まで約112kmを結ぶ瀬戸井街道と呼ばれた、筑波詣を目的として整備された由緒ある街道沿いにある。筑波山は、江戸時代、江戸から見て鬼門(東北)方向に当たるとして、徳川家からの保護により、筑波詣が盛んに行われた経緯がある。 しかし、現在は当然ながら、そんな歴史的文脈は無視されて、旧宍戸城表門付近に残っていた古き良き佇まいも年月を経るにつれて、少しずつ失われつつある。
野いばら館(旧水戸商業高校本館玄関部分)野いばら館(旧水戸商業高校本館玄関部分)は1904年4月に落成した木造平屋建の旧校舎で、設計は、国の重要文化財となって現存している旧土浦中学校本館(現・土浦一高)、旧太田中学校講堂(現・太田一高)などを手掛けた茨城県営繕技師の駒杵勤治である。 水戸商業高校の敷地内に「野いばら」が群生していたことにより、「野いばら館」と名付けられ、平成8年には、同年に制定された国登録有形文化財制度の茨城県第一号に登録された。現在は、玄関部分が敷地内に移築保存されて、同窓会館として活用、資料展示室も整備されている。 「野いばら館」の北東側に、視線を遮るようにヨド物置が無造作に置かれ、また、折角の歴史的建造物の周囲を囲うように、陳腐なスティールフェンスが設置されているのがとても目障りであり、学校側の景観に対する意識の低さを垣間見ることができる。
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