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設計者の想いの日々(ブログ)東北・北海道の町並み・建築探訪蔵のまち喜多方PARTⅢ~ふれあい通り
喜多方市は川越、倉敷と並び、蔵の多い地域として知られ、市内には4000棟近い蔵が残っています。また蔵のバリエーションも多く、白漆喰、黒漆喰、レンガ、土壁などその仕上げ方は様々で、その用途も、単なる倉庫に留まらず、店舗(店蔵)、住まい(蔵座敷)、漆器職人の作業場(塗り蔵)、酒・味噌・醤油の貯蔵庫(酒蔵・味噌蔵・醤油蔵)、屋敷の塀(塀蔵)、トイレ(厠蔵)など多方面にわたっています。
今回は喜多方市市街地のふれあい通りをご紹介します。
蔵のまち喜多方PARTⅡ~若喜商店
若喜商店は創業1755年、会津の大豆で二年間熟成する味噌と醤油の醸造所です。
レンガ蔵は明治38年建築で、明治37年の鉄道開通に伴いレンガ工場が喜多方に建てられ、この後、レンガの蔵が多く建てられるようになり、若喜商店のレンガ蔵はその走りと言えます。 昭和7年建築の店舗。昭和初期に流行した「看板建築」と呼称される建物です。 天井、柱、床の間、違い棚、調度品に至るまですべて縞柿で造られた和室。縞柿というのは柿の木が、長い年月の間に渋と年輪が混ざってできた木目を特徴としています。 これだけの縞柿を調達するには相当な長い年月を要したと思われます。
蔵のまち喜多方PARTⅠ~甲斐本家蔵座敷
甲斐本家蔵座敷は、4代目吉五郎が、大正6年に新潟の棟梁・宇佐美与四郎を招き、共に各地の名家を見て歩き、完成まで7年の歳月を要しました。
外壁は、喜多方では珍しい黒漆喰が主に塗りこめられ、重厚な風格が漂います。 座敷内部は、選りすぐりの銘木を取り寄せ、四方柾の檜・紫檀・黒檀・鉄刀木(たがやさん)などが使用されています。 筬(おさ)欄間は、檜の1枚板を数㎜幅の細い桟にくり抜く技法で、通常の筬欄間の造り方とは全く違った精緻を極めた技を見ることが出来ます。 ふすまと障子の枠は紫檀が使用されています。
鶴ヶ城~会津若松
鶴ヶ城は、会津若松市にあった城で、1384年に造営されたのが始まりである。若松城、会津若松城と呼ばれることもある。1593年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城し、この時に積まれた石垣が400年以上経った現在でも残されている。
明治に入って、1874年に天守閣は解体されたが、1965年にRC造で外観復興再建された。 再建当時は黒い瓦だったが、2011年には、明治に解体される以前の赤瓦に葺き替えられている。現在の天守閣の棟上には鯱(しゃちほこ)が付いているが、解体される以前の明治初期の天守閣には、鯱は存在しなかったようである。 現在の鶴ヶ城天守閣の内部は郷土博物館となっており、数百点の会津を代表する文化財が展示され、最上階の展望台からは、会津磐梯山、飯盛山、会津若松の街並みを一望することが出来る。 城跡は鶴ヶ城公園となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。
会津若松の町並み~七日町・野口英世青春通り
会津若松市の七日町は、江戸時代、日光・越後・米沢街道が通り、会津藩の城下町の西の玄関口としての機能を担い、問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていました。明治以降も商店街として栄えましたが、昭和後期になると次第に衰退の一途を辿りました。
このような状況のなかで、地元の有志が立ち上がり、商業文化が息づく町並みを再生すべく、1994年に「七日町通りまちなみ協議会」が発足しました。七日町には明治から昭和初期の頃に建てられた歴史ある建物が多く残っていましたが、そのほとんどが外装を新建材で覆ったり、木製建具をアルミサッシに変えたりしていました。 そんな状況を打破し、城下町らしい伝統に忠実で特色ある商店街再生に尽力された結果、現在は会津若松を代表する観光地になるまで再生を果たしています。 野口英世青春通り この通りの名前の由来は、野口英世が幼少の頃、火傷の手術を受けた会陽医院の跡などが周辺に存在したことから、1992年に命名されました。その後、道路をレンガ敷きへの改修、電線地中化、野口英世の銅像などが置かれる野口英世青春広場の開設などが行われました。 會津あずき茶 「あずき御前」 「あずき」本来の旨みが独自の製法で引き出され、万年雪をたたえる飯豊連峰から長い時をかけ湧き出た天然水が融合した會津あずき茶 「あずき御前」はポリフェノ-ル豊富でノンカロリーです。 会津若松では、「カツ丼」といえば、ソースカツ丼が日常らしいです。
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